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『おおかみこどもの雨と雪』(Ω)

ρが薦めてたので観てきた。
僕の苦手な球体の表現が出ないというし。

細田監督作品は建築物や内装が素晴らしい。
白紙に描いているというのに、
昔から存在して使い込まれているように感じる。
鉢や花瓶がほどほどに飾ってあるのも良い。
画面に映っていないところでも、キャラクタたちが生活しているのだと想像させられる。

せっかく日常を生き生きと描いているのに、
前2作はいわゆるセカイ系の話で気に入らず、
細田監督がその線でいくなら観なくていいと思ってた。
その点、今回はあくまで現実の話で、表現が連動した感があり遥かに良かった。
球体つまりセカイ系的表現や、
マンガ的デフォルメ(怒った時の釣り上がった白目とか)が無いのもいい。

ここから先はネタバレでツッコミ。

出産から子離れまでの話ではあるが、それだけで、
何を伝えたいのかはよく分からなんだ。
冒頭の雪のモノローグ、「これは母の物語」とのことだが、
花に一貫するのは狼男への盲目的な愛だけで、残された子供をどうしたいのか全く分からない。
ようは何も考えていないように見えて、随分イライラさせられる。
作り手は意図的に花のダメさ、子育てに対する無力さを盛り込んだとは思うけど。
狼男はといえば子供ができたらフェードアウト。
子育てを何もしていないのに愛され続けるなんて、男性にとっては相当に甘い展開。

最後の暴風雨の話は合点がいかない。
花の取るべき行動は、雨をあえて引き止めないか、大喧嘩するかのどちらかではなかったか。

花は都会から田舎に、自然の側に生活の場を移した。
田舎から山に入ろうとする雨もまた、自然側への移行を希望しているわけで、それを花が止められるのか。
また、花の信じる狼男は、雪が産まれた時に子供は好きなように生きさせようと言っているのだから、
それを無視して、子離れの辛さだけで引き止めるのはどうか。

大喧嘩のパターン。
狼男の行動原理として、第一に子作りなのである。絶滅しそうだから。
なので、狼の姿で花を抱いたし、
学生の花が妊娠して、普通に考えれば明日からどうすんべとなるところを、桃缶持って大喜び。
褒められたものじゃないが、一貫しててそれはいいと思う。

狼男は人間の世界に留まって子を残した。
雨は山に帰ろうとするが、果たして山には狼も人間もいないので、子は残せない。
花が狼男の信念を受け継いでいるならば、
「人間の世界で子作りしろ!」と雨を叱りとばすべきだったんじゃないのか。
で、大喧嘩して、花は負けて雨は山に行っちゃって、しっかり生きろよ!という方が良い気がする。

息子の雨に恋人の狼男の姿をダブらせて、
自然観察員なのに大雨の山で遭難というのは、救いがたい間抜け。
同じ頃、雪は母に捨てられた男の子に同情しているけど、
知らないだけで雪も母に忘れられている。ふ、不憫!

『トロン:レガシー』(Ω)

映像だけを期待して観たけど、話も結構興味深いものだった。
本編は星4つ、しかし戸田奈津子のアホな字幕が台無しにしている。
ちゃんと仕事してくれ…。

以下ネタバレ。
親父は創造主(アブラハムの宗教における神)で、クルーはアダム。
これは創造主に裏切られ、一人ぼっちでエデンの園を守ることになったアダムと、
東洋思想にかぶれちゃった創造主の話。

親父は、完璧に秩序だてられたデジタル世界を創造するため、
自身に似せてクルーを生み出し、統治の手伝いをさせる。ここまでは創世記の件と同じ。
しかしアイソーの登場によって、親父の価値観に変化が現れる。
完璧を目指すようにプログラムされていたクルーはその変化を受け入れられず、
クーデターを起こして親父を追放。
つまり、創造主の方がエデンの園から出ていってしまうわけだ。

親父の隠れ家にあった銀の林檎は、知恵の木の実のメタファー。
旧約聖書ではアダムは木の実を口にして、善悪の認識を得て追放される。
しかしクルーはこれを食べず、はねのけて床にぶちまける。
これはエデンの園から出ない、父に代わって管理するという意思表示であるとともに、
善悪の認識ができないということも意味している。

親父はといえば、アイソーと会って価値観が変わり、東洋思想にどっぷり。
禅や囲碁を嗜み、本棚には仏典や易経がささっている。

前作と同様に味方が青、敵が赤を基調とした配色をされている中で、
親父だけは白と黒の二色を基調としている点は面白い。
ビンテージのライトサイクルやマスターキーは白、着物は黒といった具合。
これは親父が敵味方から独立しており、また陰陽思想を持っていることを表している。
赤と青は、デジタル世界を支配する西洋的・一神教的な絶対的価値観を表し、
白と黒は一組で、親父の持つ東洋的・多神教的な相対的価値観を表す。
クルーが持っている球体のオブジェと、親父の持っているトゲトゲした多面体のオブジェも
同様の対比であろう。

また、マスターキーから展開されるプログラムは、
おそらく風水で用いられる羅盤をモチーフとしている。
親父の東洋趣味が徹底されていて面白い。

さて、一行は出口を目指して進むのだが、そこでサムが気になるセリフを言う。「東へ行こう」
(英語でなんと言ったかは聞き取れなかった。ニュアンスの違うことを言っているかもしれない。)
東?太陽のないデジタル世界で、方角の話をするのは奇妙だ。
確かに、出口の光を見ながら、サムはクオラに朝日の美しさについて説明するのだが、
ここであえて「東」といったのには理由がありそう。

一つは、親父の東洋思想がより極まってきているため。
もう一つは、私は読んでいないのだが、「エデンの東」が下敷きにあるのではないか。
wiki先生によれば、「父親からの愛を切望する息子の葛藤、反発、和解などを描いた作品」とあるので、まさにそうなのかもしれない。

終盤、クルーは現実世界に侵攻して完璧な秩序を打ちたてようとする。
当初にプログラムされたままで、知恵の木の実を拒否し、善悪の判断がつかないクルー。
陽を極めて陰に転じたと、東洋かぶれの親父はきっと思った事だろう。

気づいたのはそんな所。
しかし、戸田奈津子の字幕が酷かった。
英語をきちんと理解できたわけではないが、
ウィットに富んだ表現とか、上記の宗教的な表現をしてるはずなのに、
無視していい加減な言葉を当てていて、信用ならない。
DVDが出たら再確認したい。

千葉ニテ『涼宮ハルヒの消失』ヲ観タルコト(θ)

まさか今になって『涼宮ハルヒの消失』の感想をダラダラとwebの大海に船出させることになるとは思いもしなかったが、Ωとの会話の中で「コバルト爆弾αΩ内で、ひとつの作品にたいして感想が異なっているのも面白いのではないか」ということになったので、数十日、スッカリ埃を被ってしまった記憶をサルベージでもしながら書こうと思う。

まだご覧になって無い方は早々にブラウザの戻るボタンをクリック、MacならCommand+[、あるいはマウスジェスチャーで任意のジェスチャーを行ってくださると嬉しい。どう取り繕おうとしても以下はネタバレ要素を含むんです。

私はこの『涼宮ハルヒの消失』を2回観た。そしてその2回目になって気がついたことだが、今回の主役たる長門有希はこの劇中で2冊、その本の登場そのものが露骨に寓意的な小説を読んでいる。世界が改変される前:1984年新潮社『虚航船団』筒井康隆著、改変後:1999年新潮社『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹著、このふたつである。

Googleで「涼宮ハルヒの消失 虚航船団」とでも検索すれば何件かブログがHitすると思うが、この2冊とそれを読んでいる時点での長門有希の心情は強烈にリンクしているように見える。ではどのようにだろうか。

世界改変前『虚航船団』:

筒井康隆の伝説的な著書となるこの『虚航船団』は、文房具の自己紹介ならぬ自我紹介である第1部、鼬族の歴史(現実の歴史における人間を鼬に置換した架空の歴史)が延々と続く第2部、そして文房具と鼬族という異星人同士の戦争が描かれる中で、なぜか筒井康隆自身と思われる人物の随想というか、愚痴というかが混入する第3部という構成をとっている。『虚航船団』を読んだ方なら分かると思うが、文房具=長門有希という構図でしかありえないという確信をもってしまう。

現実の文房具には意識などあるはずもないが、『虚航船団』では当然のように文房具は意識を持ち、悩み、他文具(他人)と口論し、妬み、性欲を覚え、自意識を問い詰め、挙げ句自意識の防衛、その最終段階とも言える分裂症的な症状に陥る。ここまで書けば十分だろう。長門と全く同じなのだ。彼女は『虚航船団』内の文房具と同じ境遇にあって、劇中の今後(バグを溜め込み暴走、世界を改変する)を暗示している。

ついでに、これは推測でしかないのだが、この『虚航船団』第3部で時折挟み込まれる筒井康隆らしき随想、ここにキョンを当てはめて考えるのも面白いかもしれない。『虚航船団』内に広がる世界(鼬が「人間」として住む地球、鼬にとって宇宙人の文房具、そして2者の戦争のこと)において、筒井康隆はこの世界においての随想を挟む、のではなく現実の、人間が「人間」である世界において語る。つまり2つの世界が扱われているのだ。鼬と文房具が血やノリを流しながら戦っているさなかに、筒井康隆は別の世界の愚痴や出来事を挟み込んでいく。こう書いてみると、キョンと筒井康隆……別の世界の中にあって、自分の世界について志向している様がよくよく似ている。

そして『虚航船団』第3部、ラストに文房具と鼬との混血児が喋るこの科白を忘れてはいけない。

「ぼくはこれから夢を見るんだよ」

世界改変後『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』:

偉そうなことを言っておきながら私はこの本を実は読んでいない……いや読んでません。ストーリーに対するある程度の理解はできているつもりですが、『資本論』を読んでいないのに資本論について書かれた本だけを読んで語るような真似はあまりよろしくないので、書かなくてもいいですか……おねがいします……えっ、先に2冊とも超大事とか言っといて片方読んでないから説明できませんとか頭おかしいんじゃないの? その通りですよねすいません。

ひとつだけいいですか。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をセカイ系として評した言説と今回の長門有希がよく接続されて語られています。おそらくそれは正しいのでしょう。それは、わざわざ『虚航船団』を初版の装丁で劇中に出した制作側が、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は1999年の装丁で配したことからも読み取れるのではないでしょうか。世紀末、セカイ系が全盛期に水色と白色のツートーン装丁で現れた『世界の終わり〜』は、セカイ系のイコンとしては十分過ぎるほど機能しているように思われます……ただその装丁版しか資料として手に入らなかったんじゃないの、って? ……そうかもしれませんが、そうではないと信じたい、のです。

本以外で気になった点:

世界改変後のSOS団はキョンを除いて全員、改変前より魅力的に描かれているのが印象的。ハルヒの制服は改変後のほうがずっと可愛いし。ポニーテールの場面とか、おでんの時とか、キャラクターに恋してしまいそうな場面が盛りだくさん。朝倉さん好きです。

難点:

キョンが部室で修正プログラムを起動させるかどうかというところの場面で、キョンのモノローグが非常にタルいこと。劇中でさほど改変後の世界に情を覚える場面が大してなく、基本的に改変前に戻ることを目的として行動してきたくせに、エンターキーを押すか押さないかの決断時にウダウダと長ったらしく心情描写を挟むのはいかがなものか。観客がそこに至るまで読み取ってきたキョン自身の心情に対して、画面の心情描写が明らかにオーバースペックだったので、そこのズレが気持ち悪い。

最後に:

先のエントリーでΩはキョンに対して宇野常寛的な批判(決断しない軟弱野郎的な)をしていたので、私は、そうではないという立場に立ってみる。キョンは”あえて”セカイ系であることを選んでいるように思えた……実は決断していたんですよ。Ωさん。ってことで。

そんなことより、埃被った記憶を頼りに打鍵しているうちに、機会があったらもう一度観たいと思うようになってきている。まだロードショーやってるんですか? Google先生に後で訊いておこう。

というわけで、これから『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読もうと思います。

涼宮ハルヒの消失(Ω)

観ようかどうしようか迷っていたのだが、先週末に友人に誘われて観てきた。

ハルヒに関しては、私は第一作目の小説『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだだけで、アニメは見てない。『憂鬱』がいま一つだったので、それ以上追うのをやめてしまった。

なので、まず『憂鬱』の感想を少々。
本作の主人公「キョン」は、事の当事者ではなく、とにかく傍観者であろうとする。主体性の無さに突っ込みたくもなるが、そういう人物もいるだろうということでそれは置いておく。ただ、私は傍観者に対して都合の良すぎる展開が気に入らなかった。
例えば朝倉涼子にナイフで襲われるシーン。教室の扉は情報改変されて無くなっており、逃げ道は完全に断たれている。ここでキョンの取り得る選択肢は二つ。傍観者であることを止めて抵抗するか、黙って殺されるかだ。単純に考えれば前者を取るだろうが、あえて後者を取るのも傍観者としてのプライドが垣間見え、潔いといえる。
で結果はといえば、朝倉の能力でキョンは身体が動かせなくなり、刺されそうになった瞬間に長門が助けに来るというもの。
絶体絶命の状況で、さらに身体の自由を奪われるというのがポイントだ。命のかかった、主体的に行動せざるを得ない状況にもかかわらず、自分以外のものが行動を選択し、その葛藤を排除してくれている。一見して最悪の状況に追い込まれたかに見えるが、実はかなり甘えた展開といえる。
現実において傍観者でいるためには、それなりに選択しなければならない。しかし本作において、キョンは全く選択をしない。傍観者であることすら、選択したとは言い難い。彼はただ外部の選択に身を任せるだけの何もしない男だ。それを良しとしてしまう、葛藤も迷いも無いぬるい展開に私はついていけなかった。ついでに言えば、そのような作品が支持され、流行することも信じられなかった。

それに対して『消失』では、傍観者?を決め込んでいたキョンが、日常の崩壊を前にして、当事者であることを選択するらしい。気に入らなかった『憂鬱』がそのための伏線であり、『消失』まで含めてのハルヒ人気であるならば、これは見に行こうかしらんと思った次第。

では、以下映画の感想。多少ネタバレで。

冒頭のシーン、これは素晴らしかった。観ていて震えた。
真っ暗な画面、どこからか聞こえる目覚まし時計のアラーム。うめき声と共に、まぶたを開くように部屋の様子が映し出される。今まさに起きようとするキョンの視野である。ここで観客はスクリーン越しに、キョンの視野を共有することになる。
これはつまり、主人公「キョン」とは映画を観ているあなた自身だ、という宣言であろう。
ひたすら受身であったキョンの転機となる本作は、それを支持した観客に対しても転機を促す作品にするということか。ただの娯楽作では終わらせないという製作側の意気込みを感じる。

もう一点、これはと思った演出はガラス等の反射である。本作では窓ガラスや光沢のある床に、妙に人物が映り込む。
この演出の効果は二つある。一つは元の世界への憧憬。12月18日早朝を境に、キョンを取り巻く人物の性格、人間関係は変化してしまうが、外見の変化は全く無い。何かに映り込む像だけは、元の世界のままなのである。キョンが自席から呆然と外を眺める時、見た目は何も変わらない教室の様子がガラスに映り込むことで、彼の孤独と不安が一層強調される。
もう一つの効果はキョンの自省である。ハルヒ、古泉を失い、みくるに突き放されたキョンは、長門だけを頼りに、彼女の肩を掴んで訴える。結局彼女も変わってしまっていたが、顔を近づけた際に、キョンは長門のメガネに映り込む自身の姿を見る。ここで独りきりになったことを痛感すると共に、自分の像と向き合うことで、自分は何をすべきなのか、何がしたかったのかという省察が開始される。冒頭の目覚めのシーンの意味も考えると、それは観客の自省を促す訴えに他ならない。お前はお前の日常をちゃんと受け止めているのかと。地味ではあるが本作の山場の一つであろう。

と、ここまでは非常に面白かったのだが、あとは伏線の回収に終始してしまった感じで、ダレてしまった。何より、キョンが結局決断を下していないのには肩透かしを食らった感じ。朝倉がキョンを刺して止めるわけだが、実はキョンを救ったのだ。『憂鬱』と同じで、彼を選択の葛藤から開放したのだ。世界の修正を後回しにする結末もそれを裏付ける。なんとまぁぬるいこと!

結局『憂鬱』での私の不満が、『消失』で解消されることは無かった。前半の演出が良かっただけに、残念であった。